そして数時間後、イルカは川に近い林の中で身を潜ませていた。いくら忍びと言っても休みもなく走り続けることは不可能だ。無理をして走り続けても対戦した時にぼろがでる。体力を温存して計算して里に向かわねばならないのだ。
切り傷で流れた血を補うための増血丸も飲んだし兵糧丸も飲んだ。かなりのドーピングはしたがそれでも限界はあるのだ。
カブトの気配は今はない。少しはまけただろうか、相手が上忍クラスともなればすぐに探し出されてしまうだろうが、それでも少しだけでも休まなくては。
イルカはかばんの中からケースを取りだした。
今にも動き出しそうなその腕を一目見て、イルカはほっと息を吐いた。大丈夫、大丈夫、必ずあなたを里までお連れしますから。だから、もう少し待っていて、そして早く、あなたに会いたい。
イルカはケースにそっと唇を寄せた。直接触れることはできないが、それでもこんなに近くにカカシの存在がある。久々の逢瀬だったから。

「はー、そういうことでしたか。」

背後に突然カブトの気配がしたと思ったら背中に衝撃が走った。思わずケースを抱えたままその場に蹲る。

「どうして一介の中忍がここまでしているのかと疑問に思って様子を探ってみれば、はっ、とんだ茶番だ、あのはたけカカシの情人だったとは、気色の悪い。」

カブトは嫌なものを見るようにイルカに侮蔑の視線を向けてきた。イルカは自分のふがいなさに悔しくて言葉も出ない。カブトを少しでもまけたかもしれないなどと驕っていたからだ、この失態は自分のせいだ、折角取り戻したと言うのに。だが、絶対に諦めない、ここで倒れようとも、この命に替えてでもこの腕だけは渡さない。
イルカは背中の痛みに呻きながらも立ち上がり、ケースを両腕で抱えてカブトと正面から対峙する。
カブトが忌々しげに舌打ちした。

「胸くそ悪い目だ、ナルト君とよく似ているよ、無駄なあがきをする、低俗な連中の目だ。」

愛し子と同じと言われて、イルカは薄く笑った。ナルトも諦めない精神を持っている。元担任だった自分が諦められるわけがない。

「木の葉の忍びを、なめるなよ。」

「どうせ死ぬくせにいきがるなよ。」

カブトは冷静にメスを取り出した。イルカはクナイを取りだして片手でケースを大事そうに抱え直す。荷物を抱えているし相手は上忍、勝ち目はないように思うが、それでも諦めはしない。
イルカは渾身の力を込めてクナイを投げつけ、立て続けに手裏剣を取りだし投げつける。だがカブトはことごとくそれらをはじき飛ばしていく。

「ウジ虫みたいな攻撃してるんじゃないよ、クズが。」

カブトはイルカの目の前に立ちふさがるとメスでイルカの肩を切りつけた。
イルカは眩暈を感じた。背中の痛みが朦朧としてきている。感覚がなくなっていく、肩の痛みも思ったよりも感じない、まずい兆候だ。
そう思いながらイルカはその場に倒れた。

「背中と肩の傷でかなりの血を流させてもらったから、あとはもう死ぬのを待つだけだよ。僕は優しいからとどめは刺さずにいてあげるよ。ここでくたばるがいいさ。」

カブトはイルカが抱えていたケースに手を伸ばした。だがイルカは頑として手放そうとしない。出血多量で意識が朦朧としているくせにその腕だけは力を緩めようとしない。どこからそんな力が出てくるのか、完全に限界を超えた力だった。

「このっ、くそがっ、」

カブトは忌々しげにイルカの顔を蹴りつけた。意識がなくなりかけていると言うのに、それでもイルカはケースを手放さない。

「あー、もういいよ、分かった。死ねよ。」

カブトは再びメス取りだした。その鈍い刃物の光りに気付く事無く、イルカはケースを、大事そうに、放すものかと抱きしめている。愛しい者を抱きしめているかのようなその光景にカブトは舌打ちした。そして冷たくイルカを見据えると、イルカの首もとの頸動脈向かってメスを振り下ろした。
が、そのメスは届くことなく地面に落ちた。

「な、に?」

カブトの動きが止まり、そしてその場に倒れる。メスを持っていた腕にぴりりとした痛みが走っている。
目の前にいたはずのイルカが消え去り、代わりに背後から激しい怒りの殺気が流れてきた。

「どうやって殺そうか?」

カブトはうまく動かない体で振り返った。そこには片腕のカカシが立っていた。その腕にはケースを抱いたイルカを大事そうに抱えている。この一瞬でカブトを攻撃し、イルカを助け出して移動したらしい。恐ろしい早さだ、その気配も目で追うこともできなかった。

「これはこれは、腕の持ち主のご登場とは、ね。」

「諦めろ、追従していた2人の音忍は始末した。残るはお前だけだ、だがお前を一瞬で殺すのは忍びない。その毒は一過性のものじゃないから、いくらお前の快復力がすさまじくともそう簡単には回復しない。どんなに毒に慣れていようが関係ない、そういう毒だ。慣れることのない痛みにいつまでも苦しむがいい。」

カブトは切り傷のついている自分の腕を見た。ひどい色に変色している。カカシの言っていることは嘘ではないようだ。意識した途端、カブトは毒の痛みに悶えだした。味わったことのない苦痛だ、いつまで続くか分からない。回復力がある分、意識を飛ばすこともできずに永劫をと思われる時間を苦痛に支配されなくてはならない。医療に知識があるぶん、この手の毒は厄介だと判断したカブトは畜生、と小さく呟きながらうめき声をあげた。
だがカブトはそんな苦痛の中でにやりと不敵に笑った。カカシが訝しんで様子をうかがおうとした時、カブトの体が透けだした。

「残念だけど、今日は帰らせてもらうよ。」

その言葉に呼応するかのようにカブトの体が霧となって散っていく。
カカシは目を見張った。やられた。どこかで誰かがカブトを口寄せして撤退させたに違いない。こんなことができるのは大蛇丸くらいなものか。
カカシは舌打ちしたが仕方ない。逃したことは悔やまれるが今はそんな場合ではない。

「イルカ先生、しっかり、イルカ先生っ。」

カカシはそっと腕の中の人を揺り起こす。イルカはうっすらと目を開けてカカシをじっと見つめた。
蹴られたせいで顔が腫れあがっている。なぜもう少し早くこられなかったのかと悔やまれる。出血多量で意識ももうほとんどない、かなり危険な状態だと一目で分かる。

「カカシ、さん、」

弱々しい、か細いイルカの声にカカシが力強く応える。

「イルカ先生。俺の腕を取り戻してくれたんですね、ありがとう、俺のためにがんばってくれたんだね。」

イルカはぽろぽろと涙をこぼした。今までどんなに苦しい思いをしても泣かなかったけれど、カカシ本人を目の前にしたらどうしても我慢ができなかった。

「うっ、うう、かか、さん、」

「うん、ごめんね、一緒に帰ろうね。」

カカシはイルカの体をぎゅっと抱きしめた。血の匂いが鼻につく。かなりの出血だ、急いで里に戻らないと。

「カカシさん、キス、して、おね、がい、」

カカシは急がなければならないという意識があったものの、その言葉に抗えるわけもなく、数ヶ月以上もずっと愛しい人の体に触れていなかったこともあり、あっさりと陥落した。
カカシは片腕という少々やりづらい体勢であったものの、喉の渇きを潤すかのようにイルカに口づけた。血の味がする。そんなものですらたかぶってしまう。
イルカは泣きやむこともできず、だからと言ってカカシとのキスは止める気配も見せず、ひたすら嗚咽を殺してカカシとのキスを強請ってきた。
親鳥が雛に餌を与えているみたいだとカカシはこんな状況にもかかわらずかわいらしいことだとイルカを愛しく思った。
が、しばらく激しいキスの応酬をしていたイルカからの反応がなくなったと思ったら、イルカは気を失っていた。と、いうか大量出血中だった。
カカシは真っ青になって走り出した。キスとかしてる場合じゃなかった、いや、したかったけどね、でもそんな場合じゃなかった。命に関わる、一刻も早く里に帰らねば。
それからカカシは驚異的なスピードで里への帰還を果たした。ちなみに病院に着くまでイルカはカカシの腕の入ったケースをしっかりと胸に抱き手放すことは決してなかった。